オルタナティブとメインストリーム

といっても音楽の話というわけではないです。どっちかっていうとスタンスとかアティチュードの話だと思ってください。
おいらはサブカルな人間でないのでこういった話はよくわからないしあんまし興味もないしまた小難しい話は嫌いなのですが、あるいは単に年をとっただけかもしれませんが、なんだかオルタナもメインストリームも区別ができないよー、というかよくわかんないのです。

いや愚痴を言ってるつもりはないし、またどっちかがイイとかいかんとかInだとかOutだとか言いたいわけではなくて、全然たいしたことじゃないんだけどつまりはこういうことなんじゃないかなと。

メインストリームも存在しない代わりにオルタナティブなものも存在しない。あるのは作品そのものと便宜上分けられたジャンル*1と作家のパフォーマンスのログと作家同士の系譜*2だけだと。

確かに僕らの子供のころはメインストリームというものがあった。それはメディアも今と比較して限定的だったし、娯楽の幅も比較的少なかったから「一般大衆向け」というマーケットが可能だっただけのことだ。
そして昭和50年代に多感な小学生時代を過ごしたこの僕もご多分に漏れず、ヨッちゃん(野村義男)やシブがきトリオの下敷きを集めてたし、ガンプラボトムズに夢中だったし、ドキドキしながらこっそり11PM見てたし、教室の後ろでブレークダンスしてくるくる回ってたし、ジャッキー・チェンのTVの次の日はあざをつくってたし、少年ジャンプに投稿してたし、ゼビウスの隠しキャラに興奮したりしてた。みんなそうだった。それがメインストリームだった。

で、今を考えてみるとこういったもうメインストリームなんてものはどこの世界にも存在してないようにみえてしまうわけで*3(あるのはどれだけ露出をしているかとかどれだけマーケットをとっているかと言う一定の枠の中での数字の違いでしかない、と思う)良くも悪くもメインストリームが「幻想」であったことがぜーんぶ露呈してしまっただけのことだと思うわけです*4
で、そういったメインストリームを歩んでいた僕でも、一方ちょっと成長してある程度の年代になると、マス的なものに対する反抗意識と真理の探究(ちょっと大げさだが)から、もっとコアなものコアなものと興味と好奇心とコレクター心が沸騰し、「へー、おまえそんなこともしらねーの?」というクソつまんない、でもその時期とっても重要な「特権的な自意識(でも勘違い)」が芽生え、それがオルタナに向かう純粋な動機というか素地となってると思うのです。多分。自信ないけど。

でも、メインストリーム=幻想であると仮定すると、オルタナに向かう衝動も幻想の上に成り立っていたということも事実なわけでありちょっと複雑な、メランコリックな心境でもある。でも、まぁそれはさておきここで思ったのはこういうこと。

僕らのときはメインストリームがあったからオルタナという「代替の道」(ある意味での「逃げ道」)が存在してた。そしてそれはある種の人間にとって多分ガス抜きの役割を果たしていた。で、今、メインストリームがないとすると、ガス抜き機能は社会が担保できるか?その代替の代替は存在するのか?存在するとしたら何なのか?

これに関しては社会学者くんたちが考えてください。僕はわかりません。

次回は「それでも僕らがオルタナから学んだものと生み出したもの」の予定。
多分。続く。

*1:これをヒテーする気はないです

*2:寧ろこっちが今重要だと思う。コンテキスト的思考、DB的思考のベースとなる

*3:ポケモンクレヨンしんちゃんなどはかろうじてその面影があるが

*4:僕らの世代はまだその「幻想」に浸れたイイ時代を過ごせたのかもしれない